自分が世の中から必要とされていないことや、才能のなさ、
何も生み出せない非力さに悲しくなることがあります。
昨今自己肯定感もそんなに高くないんだろうと思います。
大体自己肯定感を上げるために自分を好きになろう的なアドバイスがされておりますが
そんな簡単に好きになれたり長所が見つかったら苦労しないんですよね…
考えあぐねて見つけた一つの突破口、
自分をくわいに重ね合わせると前向きになれると気付きました。
そんなしょーもない話です
くわいは私が嫌いな野菜の名前です
くわいって何ぞや?
多分知名度すこぶる低いと思います。
下の画像のような感じの、埼玉で栽培盛んな野菜です。
私は小学校の時の給食でしかみたことがないのですが、まあこれが美味しくない。
写真で見るからにして美味しくなさそうじゃないですか…?
給食でも信じられないくらい不人気でした。
調理方法に難があったのか、めっちゃ臭い、味のない芋みたいな感じでとにかく良さがわからなかった。
誰もお代わりしに行かず、給食食べ終わった後も山盛りになっていたバットを今も鮮明に思い出せます。。
こんなトンデモ野菜くわいに自分を当てはめていくと気持ちが軽くなります。
詳細を次項でお伝えしていきます。
美味しさを決めるのは常に本人の主観
何もいいところがなくて必要とされないと落胆していることもしばしばあるのですが、
自分をくわいに代入すると、私の良さを決めるのは私ではないと思えてきます。
先程からくわいをけちょんけちょんにけなしまくっていますが、
ネットで調べると美味しいって言ってる人もいるんです。
あのくわいでも物好きに選ばれることがあるのだと驚愕しました。
(くわい好きに失礼ですね)
くわいを美味しいと言っている人がいる理由として考えられるのは2つです。
1つは調理方法です。
私の食したくわいは調理方法がイケてなくて美味しく感じられなかったのかもしれません。
それと同じで、自分が色々うまくいっていないのも
自分の短所が際立つことをやっていたり、長所を引き出せていなかったりするのかもと思うと
改善の余地があるのだと希望が持てます。
もう1つは単純に味覚の違いです。
美味しさを決めるのはいつだって食べる人の主観であるように、
私をどう判断するかは常に相手に委ねられています。
そう思うと、自分だけで自分を判断するのはすごく限定的な判断と言えます。
私は誰かにとっては価値があると考えるのは決して慢心ではなく、
可能性としては十分あり得ることなんだと言っていいと思うんです。
嫌われているのはいなくなる理由にはならない
誰からも相手にされない自分に嫌気が指して、
なんかもう必要とされないならこのままスッと
消えていってもいいんじゃないかとたまに思うときがあります。
でも、近寄らない人に対して自ら迷惑行為しない限り、嫌われているというだけでは
滅される理由としては不十分だとくわいから学びました。
私はくわいが嫌いです。
だけど普段からくわいのことを思って生きてないです。
近寄らなければくわいから害を受けないし、そもそも嫌いだったら選ばないです。
私のことを嫌だと思う人はすぐに私のことを忘れる、このことを思い出すと気持ちが楽になります。
嫌っている人は嫌いな人のことを考えてなくて、
嫌われている側が罪の意識を膨らませすぎてしまっているんですよね。
こう思うと、嫌われているのは抹消される理由にはならないと思うんです。
誰からも相手にされず、その無関心さがしんどいのは変わりませんが、
それはしょうがない、私はくわいだから
そう簡単に美味しいと思ってくれる人が見つかるわけないです。
ただマイナスの感情を常に抱かれているのではなく、
常に中立だと思われているのならまあいてもいいでしょ?それ位の寛容さは世間も持ち合わせていると信じたいです。
嫌いな食べ物が存在しているのだから私も存在してていいんじゃないかと
以上がくわいに自分を当てはめる効能です。
こんなにおいしさが不明な食材であってもこの世で何年も収穫されて食べ続けられているわけです。
不味い食べ物が存在しているならわたしも存在していてもいっか、とちょっと思えます。
私の場合はくわいでしたが、嫌いな食べ物のことを考えると自分を許せるかもしれないです。
不人気でも、たった1人好いてくれる人がいるかもしれないと、
自分の癖を育てつつ生きていこうと思います。
それはくわいで言うところの悪臭かもしれませんがね!
最後までご覧いただきありがとうございました。
コメント